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記号論への招待 池上嘉彦

記号論への招待 (岩波新書)

記号論への招待 (岩波新書)


よくオタクの雑談や、評論の中に「記号」という言葉がでてくる。
たとえば、「眼鏡」はひとつの記号であり、そこから連想されるイメージとしては「委員長」「優等生」「眼鏡をとるとかわいい」「文学少女」「内向的」などが挙げられる、というような、「眼鏡」という記号には実にたくさんの意味が内包されているわけだ。
現代の漫画アニメに代表されるオタク文化は、まさにそのような大量の記号の上に成り立っている。
げんしけん*1の一巻で

W
X
Y

という例が挙げられていた。一見すると、ただの 「WXY」であるが見る人にとってはこれは女性の身体に見えるじゃない? という説明があてられていた。


で、結局記号ってなんなんだ? とずーーっと思っていたのだが、知人からこの「記号論への招待」って本が入門書として最適と勧められたので読んでみた。


すると、前者の「眼鏡」のたとえはなかなか正鵠を射ていたかもしれない。
本書から引用すると

つまり、あるものに意味を付したり、あるものからある意味を読み取ったりする行為ーーである。人間が「意味あり」と認めるもの、それはすべて「記号」になるわけであり、そこには「記号現象」が生じている。

簡単な例をあげると、最近インターネットの情報検索サービスであるところのGoogleを用いて、任意の情報を検索する行為のことを「ググる」と言う。「ググる」というのは記号そのものだ。

これがすべて。That's all.
本書は、あとは、記号論のなかでの用語や、記号論のなかでの表現の分析などの説明がなされている。


で、ずーーっともやもやしながら読んでた。
記号論ってのがどういうものかはわかった。
で、この記号論とやらはどういう場面で使うのか? という点がずーーっとわからない。
記号論を学問の一分野とするためだけに記号論が語られていて、記号論以外の世界への応用ができないんじゃないのか? という疑念がずーーっとついてまわる。
そのひとつひとつの理論やお話は納得がいくし、直感的に分かりやすい。
でも、それって記号論っていう学問の中だけでの話じゃない? と言ったもやもやが。


そのもやもやが、最後から2ページ目で、やっとすっきりした。
長いが引用する。

批評の学としての記号論
 文化を「記号」として捉えるという発想がわれわれに教えてくれるわれわれ自信の姿は、われわれ人間はおよそあらゆる種類の「記号」で満たされた「文学的テクスト」の中に(自らもまた「記号」として)住んでいるということである。それは、かつて『日本書紀』が、古き世においては草木に至るまで森羅万象がものを言った、と描写している世界を連想させる。人間は、「言語」で書かれたさまざまのテクストを読みとり、創り出したりするのと同じように、壮大な「文化的テクスト」を読みとり、創り出して生きている。そして、「言語」によるテクストの生産と解読ないし解釈がコードに基づいて、あるいはコードを超えて行われるものと同じように、「文化的テクスト」の生産と解読ないし解釈も、コードに基づき、あるいはコードを超えて行われ、その過程を通じて「文化のコード」は秩序を維持し、新しい秩序を生み出すという営みを行う。文化記号論――そして広くは記号論――は、そのような営みの仕組みの解明を目標とする。

要するに、文化を知るためにつかえるぜーと書いてある。


恐らく、文化記号論というのは、記号論の一応用である。しかし、こういった応用がなされているという一例が挙げられて、読んでるときに感じていた不安は解消された。
その多々ある応用のための、共通した基礎についてこの本では語られていたのだ。
そういう意味で「記号論への招待」というタイトルに偽りなし。

*1:[asin:4063211444:detail]