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ゴーゴーカレーでロースカツビジネスルー増し頼んでキャベツを4回おかわりするブログ

世界の中心で愛をさけぶ 片山恭一

世界の中心で、愛をさけぶ 小学館文庫

世界の中心で、愛をさけぶ 小学館文庫

9/20に銀さん、MAO、hidesukeでネットラヂヲをやるのですが、そのとき話す話題の一つとして3人が読んだことのない、読まないような本を読んでその書評を酒を飲みながらゲラゲラやろうという、まぁ、そういうようなイベント。

その課題図書が「世界の中心で愛をさけぶ」なので、買った。読んだ。


セカチュウを読んだ人は口をそろえて「最初と最後のページだけ読めばOK」というし、
どんな話? と聞いたら「彼女が死んで、オーストラリアに散骨をしに行く話」と応える。
両方とも間違ってないし、説明としては充分だ。

しかし、どうしたことか。
いわれているほど面白くないわけではない。
でも、「純愛」とか「超泣いた」とかそういうのは無いし、名作ではないことは確かだ。
じゃぁ、何が悪いのだろう。

この作品を読んでまず思い出したのは新海誠のアニメ映画「秒速5センチメートル*1だ。
共通点はずばり『主人公の強烈な自己愛
まぁ、ようするに両方とも中二病なのだ。とくにセカチュウのほうはひどい。
がんばって、小難しく、かっこつけて、斜に構えて、もっともらしいことを述べるわりに、結局ガキ臭い、自己中心的な行動しかできない主人公。
文面には出てこないけど「環境問題とか考えてる俺、カコイイ」というような空気がプンプンでている。
いかにも中二的だ。
一方、秒速5センチメートルの方は、もっと小さい。等身大で、ちっちゃな自分を守ること、思い出をとことん美化して、それを延々と引きずり続ける
ああ、これも中二的。
いいね。最高だ。

ストーリーもよく似ている。
セカチュウは「死」が恋人たちを別つ。
秒速5センチメートルは、もっと単純な距離が二人を別つ。
お互い、大切なものを失って、それを引きずりつつ生きていく物語。
秒速〜は相手が生きてるだけましだ、という説もあるかもだけど、中学生や高校生にとって種子島と栃木は、それはもう、どうしようもなく絶望的な距離だ。


さてと、いろいろと似ている二つの物語。
どっちが好きかといわれたら圧倒的に秒速5センチメートルだ。
セカチュウの何が気に入らないって、主人公がムカツクw

というか、セカチュウの方は、最初に彼女が死んだというオチであり、事実が語られて、そこにいたるまでの主人公と彼女の軌跡が語られる。
最初にオチがあって、そこからのどんでん返しも何も無い。
最初に提示された、主人公の状態へいたる過程が言いわけ的に綴られているのである。

一方、秒速5センチメートルは、彼女との微妙な関係や、最終的に二人はどうなるのか、とか、そういうお話の先を視聴者にわくわくさせるような構成がしっかりと作られている。
一度観てしまったら、この主人公のうじうじとした自己愛っぷりにイライラしつつ、いろいろと考えさせられてしまう。

ここがもっとも大きな違いじゃなかろうか?

そして、秒速5センチメートルセカチュウの圧倒的な違いは、
秒速5センチメートルの方は、二人がずいぶんと大人になったときのお話が物語の1/3を使って語られている点だ。
いや、秒速5センチメートルの「秒速5センチメートル」はそのうち5分は山崎まさよしの「One more time,One more chance」の超美麗PVみたいなもんですがw
秒速5センチメートルの彼女は、結婚して、主人公との関係はもう昔のほほえましい思い出となっている。
一方、主人公は、結局、その昔のことを引きずりつつ、美化しつつ生き続けている。
この対比や、主人公のどーしようもない自己愛の強さやら、その辺が秒速5センチメートルの面白いとこなんだなぁ

というわけで、セカチュウは面白くないわけではない。
ただ、構成が、もう構成が、どうしようも無く残念なのでした。


というのが僕の結論。

*1:[asin:4840120722:detail][asin:B000QXD9S6:detail][asin:B0013K6DL6:detail]